大阪地方裁判所 平成3年(わ)2753号 判決 1993年9月24日
主文
被告人は無罪。
理由
一 本件公訴事実は、「被告人は、平成三年七月二七日午前一時五〇分ころ、大阪市都島区<番地略>前路上において、通行中のA(当時二四歳)に対し、背後からいきなり所携のレンガ塊で同人の後頭部を三回位殴打した上、「金を出せ。」などと申し向け、その反抗を抑圧して金員を強取しようとしたが、同人に抵抗されたためその目的を遂げず、その際、右暴行により同人に加療約一〇日間を要する後頭部打撲及び挫創並びに頸部打撲の傷害を負わせたものである。」というのである。
被告人及び弁護人は、事実関係については認めるが、弁護人は、本件犯行当時、被告人は、病的酩酊により心神喪失状態にあったとして、無罪を主張している。
二 本件の事実経過について
当法廷で取り調べた関係各証拠によれば、本件における事実の経過は以下のとおりである。
すなわち、被告人は、犯行日の前日である平成三年七月二六日午後七時ころから午後九時ころまでの間、大阪市淀川区十三にあるビア・ホールで、会社の同僚らとともにビールを大ジョッキに四杯ほど飲んだ。その後、タクシーで同市北区天神橋五丁目にあるスナック「甲」に行き、翌二七日の午前零時三〇分ころまで、カラオケを歌いながら、ブランデーの水割りをダブルで四杯ないし六杯飲んだ。右スナックを出た後、帰宅するため市道大阪環状線に出て、午前零時五〇分ころ、自宅に電話をかけ、応対した妻に、タクシーで帰宅するからお金を準備して待っておくよう連絡をした。そして、被告人はタクシーを探しながら右道路を自宅方向である都島区の方面に向けて歩いた。その途中で雨が降り始めたが、なお、同方向に歩くうち、被告人は嘔吐するなどして、その後そのまま眠ってしまった。そのころから後、しばらくの間の行動は不明であるが、右のとおり、タクシーを拾い始めてから約一時間後の、同日午前一時五〇分ころ、歩き始めた地点から約1.3キロメートルほど離れた商店街の中の路地にある本件現場付近に至ったとき、前方を歩く女装の被害者を認めた(同人を女性であると思っていた)。被告人は、そのまましばらく歩いた後、いきなり路上付近にあったレンガを拾って手にした上、被害者に走り寄り、本件現場において被害者の後頭部をたて続けに三回殴打した後、「金を出せ。」と言って金銭を要求した。被害者は、レンガを持つ被告人の手を押さえながら、「こんなことされて、何で金を出さなきゃいけないの。」と言ったが、被告人はさらに、「千円でも二千円でもええから出せ。」などと言って、再度、金銭を要求した。これに対して、被害者が「私の命は千円くらいなものなのか。」などと強く述べたところ、被告人は、被害者の頭部から血が流れ落ちているのを見て、我にかえるとともに、大変なことをしたと感じ、「違います。」と述べて態度を急変させた。被告人は、被害者から、「いきなり殴ってきて金を出せはないやろう。とにかく警察へ行こうよ。」と言われ、被害者に手を引っ張られる状態で、都島警察署に向かって歩いた。被告人は、途中ずっと謝罪の言葉を繰り返したが、被害者が許そうとする気配を見せなかったため、とっさに逃げ出したものの、被害者に追いかけられて逃げるのを断念し、午前二時一七分ころ、被害者と共に都島警察署に出頭し、事情聴取を受けた上、午前二時三〇分緊急逮捕された。
三 本件犯行状況について
本件は、その犯行状況を外形のみから見ると、被害者を殴打して金を奪おうとした被告人が、被害者の抵抗にあったため、犯行を断念し、被害者とともに警察に出頭して逮捕された事案と見られるが、その事実関係を子細に見ると、被告人の行動には、以下のようないくつかの理解しがたい事実が認められる。
1 犯行現場及びそこに至る状況について
実況検分調書(<書証番号略>)によると、本件現場は、タクシーが通行する大通りからは少しそれた、商店街の中の路地である。ところが、被告人は、前記認定のとおり、飲酒した後、タクシーで帰宅しようと、タクシーを探しながら歩いていたものと認められるのに、何ゆえタクシーが通行することのない、その路地に入り込んでいたのか、その理由を十分に説明することができない。
2 犯行態様について
被告人の本件犯行態様は、レンガで被害者の頭部を三回続けて殴打した上、金銭を要求するというきわめて凶悪なものであるのに、その直後に、たちまち態度を変えて謝罪を始めるなど、その急変ぶりは、通常の犯罪者の態度としては不自然さを免れない。
この点について、検察官は、犯罪の実行に着手しながらも、反省悔悟などから態度を変化させることは往々にして見られることであって、不自然とはいえない旨主張する。しかし、被告人が態度を変化させたのは、被害者を殴打し、金銭を要求した直後であり、その態度の変化は唐突なものである。しかも、被告人が態度を急変させた直接のきっかけとなったものとして、まず考えられるのは、被害者の「こんなことされて何で金を出さなきゃいけないの。」ないし「私の命は千円くらいなものなのか。」という言葉であるが、この程度の抵抗の言葉は、通常、犯罪実行を決意した犯人にとって犯行を中止するきっかけになるほどのものとはいえないから、被告人の右態度の変化は、やや奇異なものであることは否定できない。しかも、右犯行当時、被告人は、被害者を女性であると認識していたというのであるから、女性による右発言により被告人が態度を変えるということも、より一層奇妙さを際立たせる。また、本件において被告人は、被害者の頭部に流血を認めて、これがきっかけとなって、それまでの態度を急変させたという事情も見られる。被害者の流血が犯人にとって意外な事態であるような場合には、犯人に反省悔悟の情を生じさせ、犯罪の実行を抑制する要素となることもありうるであろうが、本件の被告人が取った犯行方法は、レンガで被害者の頭部を殴打するというものであり、被害者に相当の流血を生じさせることは当然予想しうる事態であって、被告人にとって何ら意外な事態ではないはずである。それにもかかわらず、被告人は右流血を見て態度を急変させたものであり、このような態度の変化の前後において、被告人の行動様式そのものに何らかの断絶があることが強く推認される。
こうした事情を考慮すると、被告人の態度の変化には、検察官が主張するような単なる反省悔悟に基づき態度を変えたというのでは説明のつかない不自然さが残ると言わざるを得ない。
3 被告人の平素の人格態度について
被告人の父親であるBの公判供述記載、妻であるCの警察官調書、会社の社長であるDの嘆願書、同僚であるEの警察官調書によると、被告人は、中学卒業以来、現在の職場に勤務し、その仕事ぶりはまじめかつ熱心であると認められ、また、その平素の性格は、おとなしくて気が弱く、今まで他人と喧嘩をしたり、問題を起こしたことはほとんどないし、また熱帯魚を飼うのが唯一の趣味であり、家族に対しても思いやりを持った人物であるといわれている。そして、被告人が右各供述等に表れているような人格であることについては、被告人の当法廷における供述態度等からも、十分にうかがい知ることができる。
ところが、被告人の本件犯行態様は、被害者の背後から走り寄り、いきなりレンガで被害者の頭部を三回にわたって殴打して金銭を要求するという、まことに凶悪かつ危険なものであって、これは先に述べた被告人の平素の人格からは容易に想像できない、不可解な行為と言わざるを得ない。
4 犯行の動機について
本件で、被告人は、被害者を殴打した後、「金を出せ。千円でも二千円でもええから出せ。」と述べているから、被害者から金銭を奪い取る目的で、本件犯行に及んだものと推察される。ところが、被告人には、犯行時点で被害者から金銭を奪い取る動機があったとは認められない。
すなわち、まず、右の動機の点について、被告人の警察官調書の一部(<書証番号略>)には、たばこやジュースを買う金欲しさに犯行に及んだ旨の供述記載がある。しかし、被告人の右供述に至った経過を見ると、被告人は、当初はそれを否定していたことがうかがわれること、検察官調書(<書証番号略>)や法廷における供述では、警察官からそう言われ、他に理由がなかったため肯定したにすぎないと述べていること、被告人は、逮捕当時、たばこ五本と小銭四〇〇円余りを所持していたのであるから、たばこやジュースを買う金がすぐに必要なわけではなかったこと、被告人がたばこや小銭の有無を確認もしないで本件のような犯行に及んだとみることも不合理であることなどを併せ考えると、右の警察官調書の記載内容は、警察官による誘導によるものである可能性が高く、そのままには信用できないものと言わざるを得ず、たばこやジュースを買う金が欲しかったという動機を認定することはできない。
他方、被告人は、犯行前に自宅に電話をかけ、妻に対してタクシー代金を準備しておくようにと伝えていたから、タクシー代金は必要としなかったと認められる。そして、本件関係証拠によっても、その他に金銭を必要とした事情も認められないから、結局、被告人には、被害者を殴打してまで金銭を得なければならないような動機があったとは考えられない。
5 被告人の記憶の欠損について
被告人の法廷での供述や、検察官調書及び警察官調書を総合すると、被告人は、タクシーを拾いながら歩いている途中から記憶をなくしており、被害者が目の前に現れたところまではほぼ完全に記憶が欠落しているものと認められる。そして、犯行直前に、前方を歩いている被害者の姿を認めたときからの記憶は一応再現できるものの、その後も、被害者の頭部からの流血を見て我にかえるまでは、自己の行動の外形を一応記憶に止めているという程度の漠然としたものに止まっているし、その間の心の動きについて十分な説明をすることもできないのである。
四 被告人の飲酒量及び酩酊の程度について
1 以上のように、本件犯行状況には、種々の理解しがたい事実が認められるのであるが、その原因として考慮されるのは、犯行前の飲酒の影響である。
そこで、まず、被告人の犯行当時の飲酒状況を検討するに、関係各証拠によると、被告人は、犯行前日の午後七時ころから当日の午前零時三〇分ころまでの間に、ビールを大ジョッキで四杯程度と、ブランデーの水割りをダブルで四杯ないし六杯程度飲んだことが認められる。ところで、被告人の法廷での供述、Bの公判供述記載、Cの警察官調書によると、被告人は週に三回くらい、晩酌でビールを小びん二本から三本程度飲んでいたと認められ、また、Cの警察官調書によると、被告人にとっての適量は、ビールであれば小びん三本程度、日本酒であれば二合程度であるというのである。被告人は、外で飲む際には、それより多くの量を飲むというから、右のような平素の酒量が被告人にとっての限界値であるとはいえないにしても、本件では、被告人の普段の飲酒量をかなりの程度上回っていることは否定できない。
そして、被告人の警察官調書(<書証番号略>)及びEの警察官調書によると、被告人は、スナックを出る際には、少し酔っていた程度であるというのであるが、他方で、被告人の法廷での供述及び警察官調書(<書証番号略>)によれば、タクシーを拾いながら歩いている途中で嘔吐していること、しばらくの間眠り込んでしまったと認められること、また、被害者は、犯行時の被告人の様子について「だいぶ酒を飲んでいるなと思った。」「酒の臭いがぷんぷんしていた。」と証言していること、捜査報告書(<書証番号略>)及び酒酔い・酒気帯び鑑識カード(<書証番号略>)によると、犯行後約一時間余りの時点での飲酒検知の結果、呼気一リットル中0.3ミリグラムのアルコール量が検出されている上、被告人の当日の飲酒状況と類似の条件で鑑定人が実施した飲酒テストの結果では、犯行時にほぼ相当する飲酒終了後二時間の際には、一デシリットル中一八〇ミリグラムの血中アルコール濃度が認められたことなどを総合すると、被告人は本件犯行当時、相当程度の酩酊状態にあったことを否定することができない。
2 右のように、被告人は、本件犯行前に相当量の飲酒をした結果、酩酊状態にあったと認められるが、この酩酊の性質がいかなるものであって、それが被告人の犯行時の精神状態にいかなる影響を及ぼしたのかを検討する。
一般に、酩酊が人間の精神能力、ひいては法律上の責任能力に対して、どのような影響を与えるかについては、通常、単純酩酊と異常酩酊という分類がなされ、後者についてはさらに、複雑酩酊と病的酩酊とに分類される。
そして、右のうち病的酩酊にあっては、健忘ないし妄想を伴い、激しい、人格に異質な興奮に及ぶものであることから、心神喪失状態にあるものと見られている。
そこで、本件においては、被告人の前記の飲酒経過によって、犯行当時、被告人が病的酩酊といえる状態にあったかどうかを検討する必要があることになる。
3 この点について、鑑定人井川玄朗作成の鑑定書によると、被告人の犯行当時の酩酊状態はいわゆる「病的酩酊」であり、その精神状態は病的酩酊による「もうろう状態・夢幻状態」にあったとして、被告人の責任を問うことはできないと結論づけている。
鑑定人がその根拠とするところは、鑑定書及び鑑定人の当法廷証言によれば、まず、被告人が当時「もうろう状態・夢幻状態」にあったことについては、要するに、当裁判所が先に認定したような犯行状況に含まれる理解しがたい種々の事実が存在すること、被告人が本件犯行状況について「夢みたいな感じ」あるいは「写真の一コマ一コマが写り出る。そんな感じ」などと、非現実的、夢幻的な体験として供述していること、さらには、被告人につき飲酒テストを実施した結果、アルコールの摂取量の増加に伴い、てんかん圏の疾患、特にもうろう型のてんかんに主に見られる特異な脳波(いわるθ波)の出現が見られたことなどを総合した結果であるという。また、それが「病的酩酊」に基づくことについては、犯行前に約一時間の健忘が見られること、右のもうろう状態・夢幻状態の出現が突発的に起こっていること、飲酒テストの結果得られた前記の特異な脳波の出現が病的酩酊を推測させることなどを総合した結果であるというのである。
右において、鑑定人が、もうろう状態・夢幻状態、病的酩酊の判断の基礎としている事実については、当裁判所の認定した客観的事実とも符合している。また、鑑定人の行った飲酒テストについては、飲酒量、その時間経過等の条件の設定及び内容ともに適切なものであることから考えれば、右飲酒テストの結果得られた資料についても、十分信頼に値すると認められる。
たしかに、検察官が指摘するように、鑑定人が判断の基礎とした事実の一部、すなわち、鑑定人が、被告人は雨が降っていないのに降っていたと誤認した、あるいは、帰宅方向を間違えていたと認定した上、ここから被告人の記憶錯誤を基礎づけている部分は、裁判所の認定とは異なっており、被告人に右のような記憶の錯誤はない。しかし、鑑定人の証言によれば、右に指摘した事実は、総合評価をしたいくつかの基礎資料の中のひとつに過ぎないから、全体としての結論を左右するほどの事実の誤認とは考えられない。また逮捕後になされた呼気検査の結果(<書証番号略>)を判断資料として用いていないことが認められるが、鑑定結果である「病的酩酊」は、むしろ飲酒量とはさほどの相関関係を持たず、飲酒テストで得られた数値よりも、相当低い値でも出現するというのであり、右の呼気検査の結果は、右鑑定結果をむしろ補強するとさえいえるのであって、これまた結論を左右するものではない。
以上によれば、右鑑定意見は、相当な根拠を有するものとして十分信用することができる。
4 加えて、鑑定人の証言によると、被告人が犯行当時、病的酩酊とそれに基づくもうろう状態・夢幻状態にあったと判断するについて特に重視したのは、前述の特異な脳波所見であるというのであり、その脳波の出現については、その出現状況がアルコールによって誘発されたと考えられること、その強さと持続性からみて再現性がきわめて高いと考えられること、成人で右脳波が出現する例はてんかん圏の疾患が主であると言われていることなどを根拠として、本件犯行時にも、同様の脳波が出現していた可能性が高いとし、そこから、犯行当時、被告人は病的酩酊状態にあり、それに基づくもうろう状態・夢幻状態にあった可能性が高いと判断している。このような判断根拠及び推論過程もまた十分合理的なものであると認めることができる。
5 以上のように、本件における鑑定意見は、相当な根拠を有していると認められるのであって、被告人の責任能力を判断する上で、十分尊重するに値するものといえる。
五 総括―被告人の責任能力の判断
以上述べた種々の事情を考慮して被告人の犯行当時の責任能力を検討すると、本件では、被告人が犯行現場に赴いた理由を十分説明することができないばかりか、強盗を働いてまで金銭を取得しようとする犯行の動機がおよそ諒解できない。しかも、その犯行態様が被告人の平素の人格から大きく乖離したものである上、途中で態度を急変させる不自然な部分が認められるなど、本件犯行の状況それ自体に、被告人の責任能力の欠如をうかがわせる事情が認められる。特に動機を想定できないことと、本件犯行と被告人の平素の人格との著しい乖離は、責任能力の欠如を強力に推認させるものである。このような客観的状況に加えて、本件では、被告人の当日の飲酒量が平素に比べて相当程度多いことや、被告人が飲酒後、犯行現場に至る途中で嘔吐したり、眠り込んだりしていることから見て、その酩酊の程度も決して軽いとはいえないなど、責任能力に影響を及ぼす程度の飲酒状況も認められるところである。しかも、前記検討の結果、十分尊重に値すると認めた鑑定意見によれば、被告人は、犯行当時、病的酩酊によるもうろう状態・夢幻状態にあったというのである。右のような事情を総合して、被告人の責任能力を判断すると、被告人の犯行当時の状況は、飲酒によって病的酩酊の状態に陥り、自己の置かれた状況を十分に把握できないまま、何らかの理由から衝動的に犯行に出たものとしかいえないのであって、このことからすれば、被告人は、本件当時、自己の行為の是非善悪を弁え、それにしたがって行動する能力を完全に欠如していた可能性が高く、少なくともそのような合理的疑いを否定することができない。
六 結論
以上の次第であるから、被告人の行為は、刑法三九条一項によって罪とならない。よって、刑事訴訟法三三六条前段により、被告人に対し、主文のとおり無罪の言渡しをする。
(裁判官神坂尚 裁判官野田恵司裁判長裁判官西田元彦は、転任のため署名押印することができない。裁判官神坂尚)